長屋門修復番外編

何度もくぐった「濱田邸」の長屋門。今回の一部解体による修復で見えてきたものがあった。1934年に移築された農家の長屋門。英国人陶芸家バーナード・リーチの再来日のために急遽移築されたという。元々はこの益子のある北関東の農家の門で門の両脇に部屋がある。それを片方を主にロクロを引く細工場として改造して、もう片方の部屋を来日して滞在するリーチのゲストハウスとした。戦前まで長屋門は北関東では自作農として成り立つ農家の門だった。いわゆる「小作人=地主から土地を借りて耕作する農民」は持てなかった。長屋門もピンからキリまでありとても立派な門もあれば並みの門もある。現在残っているのは瓦葺きに直された立派な門が多い。このリーチと濱田の長屋門はそのランクからいえばそれ程立派な部類では無いようだ。しかし、それで価値が落ちるというものではない。豪農の長屋門は残るが並みの「長屋門」は中々残らない。それとリーチと濱田の友情の証ともいえる付加価値がある。リーチもこの門の細工場で濱田と向かい合わせでロクロを引き濱田の登り窯で焼成している。

これからが番外編の本題。土台の傷みのためジャッキアップすることで内部を一部解体しなくてはならなかった。壁や内部の傷みの修理も兼ねてだが。そのことでこの門の構造や移築した時の問題点が見えてきた。まず、細工場部分にした部屋の土台が傷みが激しかった。修復をしている大工さんの話によると大谷石の基礎(かなり低い)と土台の部材が直接乗っているため傷みが酷かったと。隣の部屋は土台の部材が「束石」に乗っているため風が通るので虫食いなどの劣化がそれ程でもないという。(とはいえ一部は土台を修復しないとならない)ただ長年の経年劣化などで「根太」が傷み根太の取り替えを行わないといけないとのこと。

それから濱田邸の立地条件もあるかもしれない。濱田邸は益子の中心地から少し離れた南斜面にたっている。現在は「濱田庄司記念参考館」という公益財団による美術館に一部なっているが「参考館」の一番上にある「上台」(うえんだい)と呼ばれる大きな茅葺の豪農の家だったものを移築してゲストハウスとして作られた建物だ。この「上台」から見下ろすとかなりの高低差がある。濱田存命の頃はこの長屋門の斜め後ろにやはり茅葺の母屋があり母屋と門との間にも高低差がある。近年の豪雨ではこの高低差がこの長屋門を傷める一員でもあるようだ。

それと、かつては長屋門は人が暮らす場でもあった。ちょっと差別的表現だが戦前は「下男下女」など使用人が住み込みで暮らしていたり、土地を分けてもらえない「長男以下の成人した男兄弟」が住んでいたりして、茅葺屋根は囲炉裏などの煙で燻されることに寄ってある程度の年月は保たれる。「これは茅葺の家屋のほとんどがそうである」部分的な「刺し茅」でメンテナンスをしながら。一定の期間が経つと吹き替えになる。こうした行為は昔は日常の生活の中に組み込まれたものだった。しかし、現在では中々そうしたことに時間を取るのは難しい。現在までに残っている「長屋門」で茅葺でいられるのは稀有なことだ。ほとんどの近隣の長屋門は瓦葺きかトタン貼になってしまうか解体されてしまう。

古民家を維持していくのは大変なことだが、今後、このようなことを行うのは中々のことではいかないだろう。景観を壊さず長持ちさせる方策も考えないといけないのだろう。それには多くの人の支援と専門家の知恵が必要だ。

一部加筆しました。

長屋門を東側面から。高低差がわかるだろうか

長屋門の内側から見た高低差 1枚目の画像は細工場から見た現在の母屋の段差

表側と裏側の基礎と土台の高さと大谷石の基礎に直に土台が乗っている。これが傷みの原因でもあるという。しかし、現状修復が基本だからこのまま修理前の状態に戻してある。

東側の部屋の土台と束石 これによって土台の部材の傷みが随分と違って来たようだ。雨水も下を通り直接土台の部材を傷めないし風等しも。

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