民芸再考

民芸運動とはなんだったのであろうと工藝の道を歩んで依頼常に思考を続けて来た。民芸運動とは日本で起きた最初で最後の「工藝運動である」若い時分に一冊しか買えなかった柳宗悦(民藝運度の創始者の一人)の「工藝論」だったか手元に無いのでタイトルはウル覚えだが若い時分に読んだので多少の反発があった。作家は職人を指導する立場と書かれていたと記憶している。その反面名も無い無名の職人が造ったそれまでの工藝の世界で見向きもされないかった日曜雑器(下手物)にこそ健康な美があると。この一文が後に「民芸ブーム」を起こすきっかけになたのでは無いかと考える。今になって本当に柳が主張したかった事ではなくマスコミなどの一面的な取り上げ方による歪んだ「ブーム」だった。戦後の混乱から落ち着いた昭和40年頃から高度成長期に入り旅ブームとリンクして民芸=お土産品といつのまいか変質してしまった。栃木県益子町に居を構えていた作家人間国宝濱田庄司(民藝運動の創始者の一人)がその頃「民芸」という言葉を隠したいと嘆いていた事を覚えている。(続く)

民藝とは。

みんげいとは、思想家柳宗悦、河井寛次郎、濱田庄司(二人ともに陶芸家で東京高等工業学校窯業科卒後に京都市立窯業試験場技官となる)の三人のが出会い紆余曲折がありながらも意気投合して木喰仏の調査に出かける列車の中で観賞用の美術工藝でなくそれまで世間で見向きもしなかった無名の陶工が造った雑器にこそ健康な美があると旅する列車のなかで同意されそれに対してなんと名前をつけるかという事で大衆的工藝、民衆的工藝、民衆的芸術などから「民藝」と名付けたと言われている。実装はそれ程簡単な理論では無い様に思っている。遊行僧で二人の有名な僧侶居て一人は円空、先に出た木喰仏を造った一人は木喰。二人とも旅をしながら各地で木彫で仏像を掘った僧侶だが、作風は両極端。円空は荒々しく造形的にも玄人好みの仏像で多くおファンがいる。が、円空仏は丁寧に掘り上げ語弊があるが少し漫画チックな浸しみのある柔かな顔をしている。三人が何故円空仏ではなく木喰仏に引かれたかは彼らの著書には「一眼で惹かれた」とのみ書かれている。


画像Wikipediaより

最初に木喰仏に出会うのは柳だった。甲府の小宮山清三宅を訪れ木喰仏と出会うことが後の民芸運動に関わってくるのだ。また、小宮と交流があった朝鮮美術を研究していた浅川伯教・巧兄弟とも出会い朝鮮の陶磁器にも虜になったと言われている。(民藝は京都から始まる)より


第二章 柳宗悦の思想とその形成(あくまで私的考察)

民藝鵜を考える上で柳の思想の背景を探らねばならない。父・柳楢悦は、爵位はなかったけれど貴族院議員だった。当然当時としては「家族」として遇されていたのであろう。寄って柳は、「華族学校」だった学習院に入学する。ここでも大きな出会いがある。高等科で武者小路実篤、志賀直哉などと交流が出来て同人誌「白樺」の創刊の準備に携わる。所謂、白樺派の文人達との交流が始まりまた、民藝運動にも深く関わるバーナド・リーチがエッチグの技法をたずさえ来日し上野でエッチグ教室を放りていたので同人のん仲間とリーチの教室を訪れる。リーチは香港で生まれ幼少期に日本にいた彼の祖父母に預けられ幼少期を過ごし英国に戻り美術学校に進学。そうした経緯で再来日して白樺派の文人や柳との交流が始まる。それとともに高等科では西田幾多郎にドイツ語を鈴木大拙大拙に英語を習い西田幾多郎は所謂京都学派の自由主義者で鈴木大拙は仏教学者でもあり臨済宗の有髪在家の居士でも有った。禅を世界に発信した人物でもあり仏教に関する著作も数多く。柳の生涯の師でも有った。学習院における出会いは柳に大きな影響を与えたのであろう。当時の「知の巨人」達とk関わりのある二人の教師と白樺派の友人との出会い後に陶芸家になるバーナド・リーチとも出会い英国で興った「工藝運動のアーツ&クラフト運動」も知ったかもしれない。「工藝運動のアーツ&クラフト運動」についてはこの章ではこれ以上触れない。また後編にて。


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